●ボンバードラミの馬的着付け的音人生 (^-^)/
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遊びと脱線と実験の人生を送っている。
結婚して子供をもうけ、それに伴う様々な仕事に従事する人は世の中にはたくさんいる。
それをしながら音楽をしていく人生もあろう。
音楽だけを人生の中心に配して生きる人もいる。
それぞれのスタンス。それぞれの許容量。それぞれの広がり。
子供を産んで音楽が良くなるケースは多々ある。
特に母親は子供を産むことでシナプスの働きが実際によくなるという研究結果もあり、他の仕事をずいぶんと大量にこなせるようになるらしい。
子供を産んだら時間がなくなって音楽ができなくなるというような心配はみじんもないのだ。
だからわっちだっていつ産んだっていいのだ。
相手さえいればっはっはっ(^^;)
音楽だけを考えて生きているという人は実際は少ないのではないか?
音楽というアスペクトは、リズムメロディーハーモニーを骨格としていたとしても、さらに様々な肉を自然に付帯する。
良い肉を良い骨の周りに配するためには自分の仕事をどう理解するかということが非常に重要になり、またそれによって日々のトレーニングの姿勢などが変わる。
ボーカルの仕事とは何か。
歌の仕事とは何だろう。
ジャズボーカルの仕事とは何だろう。
この3つが違う質問だということが意外と知られていない。
この3つの質問ではそれぞれ違うことが聞かれており、よって答えも当然変わってくるのだ。
わっちはこれに正確に答えられる自信がない。
ボーカルの仕事は、
現場を色々な意味で華やかにすることであり、お客様と音楽の距離を簡易に近づける役割を果たすものである。
歌の仕事は、
曲のテーマや主旋律を歌う限りにおいては、他の楽器に先立ち、この曲はこのように流れてゆくのだというテーゼを明確に打ち出し、他の楽器をそれに従わせ曲の真意がお客様にブレズに伝わるような力を身につけることである。
ジャズシンガーの仕事は、
上記を満たした上で、それがジャズに聞こえるようにするというのが仕事だ。
こんな感じかもしれない。
そうではないかもしれない。
いずれにしてもしっかりした骨格さえあればそこに何がつこうが聞かせられるだろう。
最近のわっちの大きな悩みは、社会と自分と音楽のかかわりにおける音楽の果たす、果たせる、果たさねばならぬ役割についてである。
社会では毎日色々なことが起きている。
今を無視して出来る音楽などはこの世にない。
では社会では毎日何が起こっていると見るべきなのか。
それこそがその人の社会の見方であり、食べ物の嗜好のようなことなのかもしれない。
食べ物が違えば排せつ物が違うように、社会の見方一つで出てくる音楽が変わる。
もちろん日々の鍛錬により骨を鍛えるのは当たり前としても、食べ物で排せつ物は決まる。
排泄物こそ自分の作った尊い音楽。
社会をどのようにみるのか。
毎日何が起きているのか。
今なぜチベットなのか?
なぜ平和なのか?
平和とは何か?
仲間を守るために人は人を殺すのか。
立派な大義があれば人は人を殺してよいのか。
立派な大義
そもそも
立派とはなにか?
外人に聞かれた
「なぜ日本人は勤勉なのか?」
こう答えた。
「fear of being recognized as a hipocrite」
猫かぶりと思われることへの恐怖から。
~と思われたくないから。
誰に?
私の仕事は
ただひたすらにその迷いの庭の中の1庭師を目指し、思考し、脱線し、実験し、失敗し、たまには成功もし、少しずつ何かがどこかへ転がって行っているということを確かめる小さな小屋の番人兼見習い庭師のようなものだ。
それがなかなかお金を生み出さないものの、家がそれで傾く心配が今のところないのでこの幸せで穏やかな小屋の番人状態を続けている。
平たく言えばプータローだ。
ニートだ。
この小屋の番人の仕事は毎日ひたすら同じことを繰り返すことで、一か所ぶれ無いところを作って、それの周りでぶれてゆく自分の位置を逐一チェックして、その距離間ぶれ方など様々な内的自分的法則をまるでお天気を図る予測師のように、グラフ化図式化していくことである。それは自分にしかわからないことだ。常に自分に集中していくのだ。そんなことにだれもお金など払ってくれないのだ。
多くの人は別のアルバイトをこなしながら同時に番人の仕事もこなしている。
それはすごく大変なことである。
わっちは何をするにも人の倍以上の労力と時間がないと達成できない愚図人であるから、のんびりと蝸牛のような歩みで進んでゆくしかない。
乗馬を初めてからというもの、自分のそうした石橋を叩き壊して渡れなくするような性格を発見し、それはそれであきらめるしかないと強く悟った。
些細な事にもいちいちビビってしまうのだ。
いま一つ変わり始めている声の変化をビビりつつも認識し受け止め、その変化と勇気を出して付き合おうと思っているところだ。
この変化は自分にわかりやすい実感を与えてくれない類の変化だ。
つまりその場の実感がどんどんなくなってゆき、足場がぐらぐら崩れていく類の不安感なのだ。
声帯振動人である以上この変化は通らなくてはいけない道だ。
これを通り抜けることができれば
目がほとんど見えなくても描いていたモネの境地へと続く道に入れることになる。
つまりそれはそれほど大変な道だ。
声帯の神経を頼りに音を出し、聴覚を一切信用しないのだ。
(その点に関してだけはという意味でだけど)
歌っている時点で大概の歌手は大失敗を犯しているということになってしまうのだ。
体を楽器として自在に使うということはじつに大変なことなのだと、改めて、全身でビビってしまうのだ。
そりゃ~1㌔5万円の赤身のマグロに包丁を入れるようなものだ。
怖くて震えてしまう。
それを出す相手がたとえ1㌔500円のマグロと味の区別がつかない相手だろうと何だろうとそれはどえらい緊張なのだ。
なんだろうと思う。
結婚して子供をもうけ、それに伴う様々な仕事に従事する人は世の中にはたくさんいる。
それをしながら音楽をしていく人生もあろう。
音楽だけを人生の中心に配して生きる人もいる。
それぞれのスタンス。それぞれの許容量。それぞれの広がり。
子供を産んで音楽が良くなるケースは多々ある。
特に母親は子供を産むことでシナプスの働きが実際によくなるという研究結果もあり、他の仕事をずいぶんと大量にこなせるようになるらしい。
子供を産んだら時間がなくなって音楽ができなくなるというような心配はみじんもないのだ。
だからわっちだっていつ産んだっていいのだ。
相手さえいればっはっはっ(^^;)
音楽だけを考えて生きているという人は実際は少ないのではないか?
音楽というアスペクトは、リズムメロディーハーモニーを骨格としていたとしても、さらに様々な肉を自然に付帯する。
良い肉を良い骨の周りに配するためには自分の仕事をどう理解するかということが非常に重要になり、またそれによって日々のトレーニングの姿勢などが変わる。
ボーカルの仕事とは何か。
歌の仕事とは何だろう。
ジャズボーカルの仕事とは何だろう。
この3つが違う質問だということが意外と知られていない。
この3つの質問ではそれぞれ違うことが聞かれており、よって答えも当然変わってくるのだ。
わっちはこれに正確に答えられる自信がない。
ボーカルの仕事は、
現場を色々な意味で華やかにすることであり、お客様と音楽の距離を簡易に近づける役割を果たすものである。
歌の仕事は、
曲のテーマや主旋律を歌う限りにおいては、他の楽器に先立ち、この曲はこのように流れてゆくのだというテーゼを明確に打ち出し、他の楽器をそれに従わせ曲の真意がお客様にブレズに伝わるような力を身につけることである。
ジャズシンガーの仕事は、
上記を満たした上で、それがジャズに聞こえるようにするというのが仕事だ。
こんな感じかもしれない。
そうではないかもしれない。
いずれにしてもしっかりした骨格さえあればそこに何がつこうが聞かせられるだろう。
最近のわっちの大きな悩みは、社会と自分と音楽のかかわりにおける音楽の果たす、果たせる、果たさねばならぬ役割についてである。
社会では毎日色々なことが起きている。
今を無視して出来る音楽などはこの世にない。
では社会では毎日何が起こっていると見るべきなのか。
それこそがその人の社会の見方であり、食べ物の嗜好のようなことなのかもしれない。
食べ物が違えば排せつ物が違うように、社会の見方一つで出てくる音楽が変わる。
もちろん日々の鍛錬により骨を鍛えるのは当たり前としても、食べ物で排せつ物は決まる。
排泄物こそ自分の作った尊い音楽。
社会をどのようにみるのか。
毎日何が起きているのか。
今なぜチベットなのか?
なぜ平和なのか?
平和とは何か?
仲間を守るために人は人を殺すのか。
立派な大義があれば人は人を殺してよいのか。
立派な大義
そもそも
立派とはなにか?
外人に聞かれた
「なぜ日本人は勤勉なのか?」
こう答えた。
「fear of being recognized as a hipocrite」
猫かぶりと思われることへの恐怖から。
~と思われたくないから。
誰に?
私の仕事は
ただひたすらにその迷いの庭の中の1庭師を目指し、思考し、脱線し、実験し、失敗し、たまには成功もし、少しずつ何かがどこかへ転がって行っているということを確かめる小さな小屋の番人兼見習い庭師のようなものだ。
それがなかなかお金を生み出さないものの、家がそれで傾く心配が今のところないのでこの幸せで穏やかな小屋の番人状態を続けている。
平たく言えばプータローだ。
ニートだ。
この小屋の番人の仕事は毎日ひたすら同じことを繰り返すことで、一か所ぶれ無いところを作って、それの周りでぶれてゆく自分の位置を逐一チェックして、その距離間ぶれ方など様々な内的自分的法則をまるでお天気を図る予測師のように、グラフ化図式化していくことである。それは自分にしかわからないことだ。常に自分に集中していくのだ。そんなことにだれもお金など払ってくれないのだ。
多くの人は別のアルバイトをこなしながら同時に番人の仕事もこなしている。
それはすごく大変なことである。
わっちは何をするにも人の倍以上の労力と時間がないと達成できない愚図人であるから、のんびりと蝸牛のような歩みで進んでゆくしかない。
乗馬を初めてからというもの、自分のそうした石橋を叩き壊して渡れなくするような性格を発見し、それはそれであきらめるしかないと強く悟った。
些細な事にもいちいちビビってしまうのだ。
いま一つ変わり始めている声の変化をビビりつつも認識し受け止め、その変化と勇気を出して付き合おうと思っているところだ。
この変化は自分にわかりやすい実感を与えてくれない類の変化だ。
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つまりそれはそれほど大変な道だ。
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⇒都内ツアーのスケジュール詳細
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