●ボンバードラミの馬的着付け的音人生 (^-^)/
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ロマの世界の魅力は音楽だけではない。
むしろ音楽はごく一部であり、あの環境あったればこそ出た音楽が、我々の肌に合うと思うのは幻想のような気がする。
盆踊りや長唄、都々逸のに我々が持つ感情的親近感とロマにとっての自分の音楽が本来呼応するはずだ。
ロマの音楽を好きになってはいけないなどと言っているのではない。ロマの音楽を好きになる人の気がしれないなどと暴言を吐くつもりもない。
魅力的な音楽であることは無違いないのだから。(まぁそれも好き好きだと思うけど)
この音楽(あるいはどの音楽でも)が生み出された背景を考えると、結局踊りなんだなぁと思ってしまう。
あのベリーダンス的な魅惑の踊りあってこその音楽であり、音楽だけ切り抜いて日本に持ってきたところでまるでサビ抜きの寿司だ。
背景といえば、日本と大きく違うところは、「舗装されていない道路」と「家畜」の存在だ。
日本の昔田舎を思わせる懐かしい土煙の出る道と木々に囲まれて、細々とある小さな部落。
牛の引く農作機。
荷物を引く馬。
そこらじゅうを走り回る鶏のむれ。
アオッパナを垂れた子供たちはみんな誰かしらのお下がりのヨレヨレの服を着ている。
音楽が感情と直結したところにあった懐かし時代は、まるでアスファルトによって遮断されてしまったかのように、現在の日本では感情と音楽が一致しない。
少なくとも彼らの中にある原始的直結的一致は見出されにくい。
複雑化多様化なのかもしれない。
孤立阻害剥離分離なのかもしれない。
暴慢感のようなものかもしれない。
うれしいから踊らずにはいられない。
悲しいから踊るしかない。
そんな当たり前の体の動かし方ができなくなってきているのには、日本の伝統音楽からの日常分離が大きく影響しているかもしれない。
唯一残っているのが夏祭りのお囃子と盆踊りだけだ。
世界にある様々な魅惑的な音楽と踊りに比べるといささか陳腐に思えてしまうのかもしれない。いい年こいてドラえもん音頭はないだろ(すまんm(__)m兄貴)
日本でも沖縄にはまだ踊りと音楽が直結して残っている。
音楽が踊りと離別してしまったそれ以外の地域では(つまりほぼ全国的に)完全に外来勢力にのまれてしまっている。
最近はよさこいソーラン祭りなどがはやっているらしいが、日本2大祭りにタグを組ませないとどうにもならないほど日本の音楽と踊りは壊滅的な状況なのだ。
これは地域性の喪失に起因するものではないか?
全国が悪い意味で統一されてしまっているのだ。
もちろんまだまだ沢山地域特有のお祭りが残っている。
富山の風の盆などは日本を代表するセクシー盆踊りだろう。
ところが肌の露出が多いからどうにかしろなどと外部からやってきた人間が祭りに茶々を入れだす。
鬼嫁風むちゃくちゃおちょぼ口風勘違い上品型PTA人間たちだ。
この映画を見て改めて舗装されてない道と家畜の大切さを思い知ってしまった。
それは人々の感情と、音楽と、踊りをつなぐもののような気がする。
ロマの音楽に惹かれるのはその感情と音楽の直結に大いなるノスタルジーを見出すからなのではないかという気がしてならない。
とりもなおさず、それはすなわち我々が何らかのきっかけで失いつつある昔の風景を思い出すときに得るノスタルジーに似ている。
現代の日本では音楽は踊りから感情的に独立しているがゆえに、そこに新し価値が付加され始めている。
すなはち、名誉の対価としての音楽。
その音楽は踊りを必要とせず、その音楽で自分が表現できるかが重要となる。
私を見てください。どうです私。そういう類の音楽。
祝い→喜び→踊りたい→音楽がいる→楽団を雇う。
葬式→悲しみ→踊らずにはいられない→音楽がいる→楽団を雇う。
この雇用形態は日本ではもうないと言っても過言ではない。
楽団も行き場を失い結局離散し各地でワンナイトスタンド的一夜のお供的演奏を繰り返す羽目になり、それもお呼びでもないのに演奏しなくてはいけない羽目に陥るという奇怪な状況が生み出される。
お呼びがあった場合でも踊りたいから呼ばれるのではなく、物珍しもの希少価値があるものめったにお目にかかれ無いブランドバッグを見に行くようなたぐいのお呼び出しだ。
日本の音楽は大切な根幹を失いつつある。
それは客を躍らせる意欲だ。
技術の低下の原因はそこにある。とわっちはこの際言い切ってしまう。
そもそもお客さん自体が躍る気ゼロなんだから当たり前といったら当たり前だ。
なぜ踊る気がゼロになったか?
土の道と家畜と地域性の消滅が原因だ。
「世間の目」が全国に広がってしまったことが最大の問題なのだ。
昔は一部自分の周り半径1キロ圏内の世間の眼だけを気にしていればよかったのに、いまや全国の眼を無意識的に気にしながら生きている。
われわれは世界各地の魅惑的な音楽の虜になる前に、いや別になった後でも良いのだけど、自分の地域の音楽がなぜないのか、あるいはあったとして、なぜそれを好きになれ無いのか、無関心になってしまうのかをじっくり考えてみる必要があるとおもう。
その音楽はなぜ自分を揺さぶらないのか。
そして今や地域というのは日本全土に広がっていしまったので、地域の音楽というとJPOPを想像する人がいるかもしれない。
それでよいと思う。
ロマの音楽はあまりにもコユイ。
我々の抱える悲劇はコユイ音楽を生み出す土壌を知らず知らずのうちに放棄してしまっているこの体質かもしれない。
明日から後期高齢者(この言い方は何だろうと思う。中期行き後れのボンバーですけどなにか?)の年金から保険料が天引きされるらしいけど、今の日本の音楽の現状は完全に政治の状況、あるいは政治が作り出した社会の状況の鏡になっている。
知らず知らずのうちに地域が崩壊する。知己が崩壊すれば音楽もそれに伴う感情もどんどん知らず知らずのうちに崩壊する。
むしろ音楽はごく一部であり、あの環境あったればこそ出た音楽が、我々の肌に合うと思うのは幻想のような気がする。
盆踊りや長唄、都々逸のに我々が持つ感情的親近感とロマにとっての自分の音楽が本来呼応するはずだ。
ロマの音楽を好きになってはいけないなどと言っているのではない。ロマの音楽を好きになる人の気がしれないなどと暴言を吐くつもりもない。
魅力的な音楽であることは無違いないのだから。(まぁそれも好き好きだと思うけど)
この音楽(あるいはどの音楽でも)が生み出された背景を考えると、結局踊りなんだなぁと思ってしまう。
あのベリーダンス的な魅惑の踊りあってこその音楽であり、音楽だけ切り抜いて日本に持ってきたところでまるでサビ抜きの寿司だ。
背景といえば、日本と大きく違うところは、「舗装されていない道路」と「家畜」の存在だ。
日本の昔田舎を思わせる懐かしい土煙の出る道と木々に囲まれて、細々とある小さな部落。
牛の引く農作機。
荷物を引く馬。
そこらじゅうを走り回る鶏のむれ。
アオッパナを垂れた子供たちはみんな誰かしらのお下がりのヨレヨレの服を着ている。
音楽が感情と直結したところにあった懐かし時代は、まるでアスファルトによって遮断されてしまったかのように、現在の日本では感情と音楽が一致しない。
少なくとも彼らの中にある原始的直結的一致は見出されにくい。
複雑化多様化なのかもしれない。
孤立阻害剥離分離なのかもしれない。
暴慢感のようなものかもしれない。
うれしいから踊らずにはいられない。
悲しいから踊るしかない。
そんな当たり前の体の動かし方ができなくなってきているのには、日本の伝統音楽からの日常分離が大きく影響しているかもしれない。
唯一残っているのが夏祭りのお囃子と盆踊りだけだ。
世界にある様々な魅惑的な音楽と踊りに比べるといささか陳腐に思えてしまうのかもしれない。いい年こいてドラえもん音頭はないだろ(すまんm(__)m兄貴)
日本でも沖縄にはまだ踊りと音楽が直結して残っている。
音楽が踊りと離別してしまったそれ以外の地域では(つまりほぼ全国的に)完全に外来勢力にのまれてしまっている。
最近はよさこいソーラン祭りなどがはやっているらしいが、日本2大祭りにタグを組ませないとどうにもならないほど日本の音楽と踊りは壊滅的な状況なのだ。
これは地域性の喪失に起因するものではないか?
全国が悪い意味で統一されてしまっているのだ。
もちろんまだまだ沢山地域特有のお祭りが残っている。
富山の風の盆などは日本を代表するセクシー盆踊りだろう。
ところが肌の露出が多いからどうにかしろなどと外部からやってきた人間が祭りに茶々を入れだす。
鬼嫁風むちゃくちゃおちょぼ口風勘違い上品型PTA人間たちだ。
この映画を見て改めて舗装されてない道と家畜の大切さを思い知ってしまった。
それは人々の感情と、音楽と、踊りをつなぐもののような気がする。
ロマの音楽に惹かれるのはその感情と音楽の直結に大いなるノスタルジーを見出すからなのではないかという気がしてならない。
とりもなおさず、それはすなわち我々が何らかのきっかけで失いつつある昔の風景を思い出すときに得るノスタルジーに似ている。
現代の日本では音楽は踊りから感情的に独立しているがゆえに、そこに新し価値が付加され始めている。
すなはち、名誉の対価としての音楽。
その音楽は踊りを必要とせず、その音楽で自分が表現できるかが重要となる。
私を見てください。どうです私。そういう類の音楽。
祝い→喜び→踊りたい→音楽がいる→楽団を雇う。
葬式→悲しみ→踊らずにはいられない→音楽がいる→楽団を雇う。
この雇用形態は日本ではもうないと言っても過言ではない。
楽団も行き場を失い結局離散し各地でワンナイトスタンド的一夜のお供的演奏を繰り返す羽目になり、それもお呼びでもないのに演奏しなくてはいけない羽目に陥るという奇怪な状況が生み出される。
お呼びがあった場合でも踊りたいから呼ばれるのではなく、物珍しもの希少価値があるものめったにお目にかかれ無いブランドバッグを見に行くようなたぐいのお呼び出しだ。
日本の音楽は大切な根幹を失いつつある。
それは客を躍らせる意欲だ。
技術の低下の原因はそこにある。とわっちはこの際言い切ってしまう。
そもそもお客さん自体が躍る気ゼロなんだから当たり前といったら当たり前だ。
なぜ踊る気がゼロになったか?
土の道と家畜と地域性の消滅が原因だ。
「世間の目」が全国に広がってしまったことが最大の問題なのだ。
昔は一部自分の周り半径1キロ圏内の世間の眼だけを気にしていればよかったのに、いまや全国の眼を無意識的に気にしながら生きている。
われわれは世界各地の魅惑的な音楽の虜になる前に、いや別になった後でも良いのだけど、自分の地域の音楽がなぜないのか、あるいはあったとして、なぜそれを好きになれ無いのか、無関心になってしまうのかをじっくり考えてみる必要があるとおもう。
その音楽はなぜ自分を揺さぶらないのか。
そして今や地域というのは日本全土に広がっていしまったので、地域の音楽というとJPOPを想像する人がいるかもしれない。
それでよいと思う。
ロマの音楽はあまりにもコユイ。
我々の抱える悲劇はコユイ音楽を生み出す土壌を知らず知らずのうちに放棄してしまっているこの体質かもしれない。
明日から後期高齢者(この言い方は何だろうと思う。中期行き後れのボンバーですけどなにか?)の年金から保険料が天引きされるらしいけど、今の日本の音楽の現状は完全に政治の状況、あるいは政治が作り出した社会の状況の鏡になっている。
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■7/29(mon)
吉祥寺mandala2
ボンバードラミ(vo gt)
西海しげる(gt)
越智泰彦(eb)
start 20:00~¥2000
⇒都内ツアーのスケジュール詳細
⇒my space音楽配信
⇒youtube風に還る日
⇒youtubeニレの木祭り
⇒youtubeニレの木祭り2
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