●ボンバードラミの馬的着付け的音人生 (^-^)/
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ものすごくオンチなボーカルの知り合いがいた。
なんでこうなっちゃうのだろう・・・。
音がとれない。
(一音くらいずれちゃうーー;真性の音痴ですね)
拍もとれない。
(心停止じゃないです。二拍半くらいずれちゃう^^;)
うーむ。
と思っていた。
どうやって説得すればいいのだろう・・・。と。
こうすれば治るよ
という何か特効薬的な言葉はないのか?・・・と。
歌ってると思わなければいいんだよ
とか
少し力を抜いて歌ってみたら?
とか
音程を技と上げ目でとってみれば?
とか
踊りながら歌えばいいんだよ
とか
色々もっともらしいことを言うことはできるのだが
どうも違うような気がする。
なぜならそれらの言葉は残念ながら
何の成果も、もたらさなかったのだから。
自分を取ってみると良くわかるんだけど
結局、
能動的な力を極力省いて
そこでなお残っている
残骸的なもの
すなわちカスのような部分が
「自分」であり
悲しいけれど、むなしいけれど、
まぁ、なんとも、ろくでもねーな
そうした基本的実情を
受け入れられているかどうかがまず
人としての基本姿勢として問われているようなのだ
それを受け入れられずに
あがき、もがいているというものが
すべての音楽的失敗に
結びつき
己のろくでもない演奏
ということになる
ところが人というものは
サガ的に(どんな日本語だ^^;)
ろくでもなくても良いということはなかなか認められず
何とかそこから抜け出そうとするものなのだ
そうなって来ると
カスの自分を受け入れる諦観的行動とは
正反対のことをしだす。
激しい筋トレ、ボイトレ、
同じ曲を50回も60回も続けて歌うというような
飛馬もびっくりのスポコン的過ちを犯し出す。
それは結果的に成長を促進するどころか
停めてしまうか逆戻りさせてしまう。
さらにやり過ぎによる
悪癖を定着させてしまい、
喉を傷めるなどの弊害を伴い、
音痴などを超えた変な歌うたいになってしまう恐れもある
シュール音痴?^^;)
音痴を超え・・その先へ・・・という。
ある意味凄い技のような気がしてきたけれども・・・。
始めからそのようなスポコンを出さず
何もしなければいいのか?
どうもそういうことでもないらしい。
何もしなければ確かに変な癖は付かないかもしれないが
音楽をする身体にさえならない
論外なのだ
では人に求められる清く正しく美しい行動はなんなのか?
「やる」しかないなのだ。
そしてやって少しでもおかしければ
直ちに「修正する」なのだ
となると
なにが「ヤル」であり、
なにをもってして
少しでもおかしいと判断するのか
そしてどうなったとすると
それは修正された
ということになるのか・・・?
そこで重要なのが先人の知恵
だったりするのかもしれない
あるいは先人の残した演奏そのものだったりもする。
ここに答えのうちの半分以上はありますよ。
これ聴いてわからなければ仕方なし。
感じられないなら仕方なし。
さらにそこから
その先を読みとけないのならそれも仕方なし。
なんとも仕方ないだらけの世界が待っており
それに対峙出来るのは
己の感性だけという・・・。
「ヤル」を間違えない感性
何を「少しの間違え」と思えるかの感性
「修正する」感性
どれをとっても
自分次第。
ここの分かれ目で
すべての人間が
イケてる道と
イケてない道に
分類されていく。
とりあえず色々修正するぞぃっ!
「やり」も足りないし
やり尽くした後の諦観も足りない。
やって無いから
諦観できないんだね。
と、
いうわけで
音痴の治し方?
そんなもん知らん!
なんでこうなっちゃうのだろう・・・。
音がとれない。
(一音くらいずれちゃうーー;真性の音痴ですね)
拍もとれない。
(心停止じゃないです。二拍半くらいずれちゃう^^;)
うーむ。
と思っていた。
どうやって説得すればいいのだろう・・・。と。
こうすれば治るよ
という何か特効薬的な言葉はないのか?・・・と。
歌ってると思わなければいいんだよ
とか
少し力を抜いて歌ってみたら?
とか
音程を技と上げ目でとってみれば?
とか
踊りながら歌えばいいんだよ
とか
色々もっともらしいことを言うことはできるのだが
どうも違うような気がする。
なぜならそれらの言葉は残念ながら
何の成果も、もたらさなかったのだから。
自分を取ってみると良くわかるんだけど
結局、
能動的な力を極力省いて
そこでなお残っている
残骸的なもの
すなわちカスのような部分が
「自分」であり
悲しいけれど、むなしいけれど、
まぁ、なんとも、ろくでもねーな
そうした基本的実情を
受け入れられているかどうかがまず
人としての基本姿勢として問われているようなのだ
それを受け入れられずに
あがき、もがいているというものが
すべての音楽的失敗に
結びつき
己のろくでもない演奏
ということになる
ところが人というものは
サガ的に(どんな日本語だ^^;)
ろくでもなくても良いということはなかなか認められず
何とかそこから抜け出そうとするものなのだ
そうなって来ると
カスの自分を受け入れる諦観的行動とは
正反対のことをしだす。
激しい筋トレ、ボイトレ、
同じ曲を50回も60回も続けて歌うというような
飛馬もびっくりのスポコン的過ちを犯し出す。
それは結果的に成長を促進するどころか
停めてしまうか逆戻りさせてしまう。
さらにやり過ぎによる
悪癖を定着させてしまい、
喉を傷めるなどの弊害を伴い、
音痴などを超えた変な歌うたいになってしまう恐れもある
シュール音痴?^^;)
音痴を超え・・その先へ・・・という。
ある意味凄い技のような気がしてきたけれども・・・。
始めからそのようなスポコンを出さず
何もしなければいいのか?
どうもそういうことでもないらしい。
何もしなければ確かに変な癖は付かないかもしれないが
音楽をする身体にさえならない
論外なのだ
では人に求められる清く正しく美しい行動はなんなのか?
「やる」しかないなのだ。
そしてやって少しでもおかしければ
直ちに「修正する」なのだ
となると
なにが「ヤル」であり、
なにをもってして
少しでもおかしいと判断するのか
そしてどうなったとすると
それは修正された
ということになるのか・・・?
そこで重要なのが先人の知恵
だったりするのかもしれない
あるいは先人の残した演奏そのものだったりもする。
ここに答えのうちの半分以上はありますよ。
これ聴いてわからなければ仕方なし。
感じられないなら仕方なし。
さらにそこから
その先を読みとけないのならそれも仕方なし。
なんとも仕方ないだらけの世界が待っており
それに対峙出来るのは
己の感性だけという・・・。
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何を「少しの間違え」と思えるかの感性
「修正する」感性
どれをとっても
自分次第。
ここの分かれ目で
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イケてる道と
イケてない道に
分類されていく。
とりあえず色々修正するぞぃっ!
「やり」も足りないし
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諦観できないんだね。
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■7/29(mon)
吉祥寺mandala2
ボンバードラミ(vo gt)
西海しげる(gt)
越智泰彦(eb)
start 20:00~¥2000
⇒都内ツアーのスケジュール詳細
⇒my space音楽配信
⇒youtube風に還る日
⇒youtubeニレの木祭り
⇒youtubeニレの木祭り2
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